コラム:言葉と社会習慣

王蓉という歌手がいます。ミュージックビデオで斬新なダンスを踊っているのでよく
見るとそのダンスは手話でした。手話という言葉の伝達手段をダンスという形に取り
入れたものでした。同じように我々が普段使う言葉は人が人に何かを伝えるために発達
したものだったかも知れませんが、時代を経てそれぞれの言葉が楽しみ方を覚えて
きたのではないでしょうか。漢詩も和歌もイタリアの14行詩も詩篇ヘブライ語
それぞれその言葉での美しさがあり、他の言葉に訳した瞬間に美しさが半減します。
香港に住み他国語に接する機会が多くなり、私が感じたことは「言葉は話す人を造る」
ということです。日本人や韓国人は勤勉だとか忍耐強いと言われますが、それは
日本語や韓国語を母国語にしているせいではないでしょうか?日本語や韓国語は、
動詞が最後にきます。つまり、最後まで話を聞かない限り結論が分からないわけです。
それに対して英語や中国語は主語の後にすぐ動詞が来ます。話し手の国民性は結論を
急ぐことがあり、ビジネスに敏感です。原因は国民性というより、言葉が作っている
ように感じられます。
また子音が破裂音の多い言葉を話す人々は、母音を大事にする言葉を話す人々より
攻撃的です。英語圏、ドイツ語圏の人々がラテン語圏の人々より積極的なビジネスを
する理由は「狩猟民族と農耕民族の違い」と言われてきましたが、私は彼らの話している
言葉にも原因があると思います。もしモーツァルトの「魔笛」がイタリア語で書かれて
いたら、「夜の女王のアリア」はあれほど有名になることはなかったでしょう。
カトリックのミサで今もラテン語が使われているのも、母音をゆっくり発音する言語の
ほうが人に安心感を与えるからでしょう。
日本のポップスを聞いて、最近「SH」の発音に母音を省く言葉が聞かれるようになりました。
最近の若者が「切れやすい」のも言葉の変化に原因があるのでしょうか?それとも
人の変化が言葉の変化に影響を与えているのでしょうか?私は言葉が変っていくことに
対して否定的なのではありませんが、過去長く存続した言葉にはそれぞれ意味があり
それを大事にしていく文化を守っていくべきだと考えています。